主観の落とし穴
蛭川皓平 [ 著者コラム一覧 ]
1.なぜ記録・計算をするのか
セイバーメトリクスはよく「机上の空論」や「数字遊び」といったニュアンスで(というかしばしばそのままの言葉で)批判を受ける。もっと実際に野球をプレーし試合をよく見ろという批判は多い。しかしそもそもセイバーメトリクスの取り組みは、主観的な観察・直感的な考察への懐疑に基づいている面がある。これは具体的にはどういうことを言うのか、今回はそれに関してセイバーメトリクス的な意見・見方を簡単に紹介してみたい。
セイバーメトリクスを世に広めた名著である『マネー・ボール』の内容は、野球ファン(あるいはプレーヤーや指導者までも)が、自身が持つ野球観の客観性を過大評価しがちであることを戒めている。私はセイバーメトリクスを紹介するために自分のサイトを立ち上げたとき、序文に真っ先に『マネー・ボール』から以下のビル・ジェイムズのコメントを引用した。
「考えてみてほしい。3割の打者と2割7分5厘の打者を、目で見るだけで区別することはぜったいにできない。なにしろ、2週間にヒット1本の差しかない。シーズンを通じてそのチームの全試合を観ているスポーツ記者なら、ひょっとすると何か違いを感じとれるかもしれないが、おそらく不可能だろう。10試合に1試合見る程度の平均的な野球ファンは、むろん、そんな微妙な差を見きわめられるはずがない。事実、もし年間15試合観戦するとすれば、目の前でたまたま2割7分5厘の打者が3割打者より多くヒットを打つ確率が40パーセントもある。要するに、すぐれた打者と平均的な打者の違いは、目には見えない。違いはデータのなかだけにある。(マイケル・ルイス著、中山宥訳、『マネー・ボール』、ランダムハウス講談社、2004年、98頁)」
考えてみれば当然のことである。野球ファンといっても、ほとんどの人は、行われているプロ野球全ての試合を見ているわけではない。半分見ることだって相当難しいだろう。そんな中でデータも見ずに「今年のMVPにふさわしいのは誰か」「一般に無死一塁でバントをするのは有効な戦術か」といった議論に対して特定の主張をすることは危険ではないだろうか。
それでも、ヒットを打ったか打っていないかといった明確な事象ならばまだいい。観測した対象についての評価がそもそも曖昧なこともある。ビル・ジェイムズのコメントは以下のように続く。
「そのうえ、誰もが打者を中心にして試合を眺めている。打者の動きを見つめ、スコアカードを開いて名前を確認する。三塁線に鮮やかな打球が飛び、それを三塁手が横っ飛びにつかんで一塁送球アウトにした場合、三塁手に拍手を送る。だが、打球が飛ぶ前、三塁手の動きに注目していた観客がいるだろうか? 三塁手がもし打球の方向をうまく予測して守備位置をずらしていたら、2歩だけ動いて、あたりまえにバックハンドでつかめただろう。そして誰も拍手しない(同上)」
この指摘は、守備指標の結果が主観的な評価と食い違うことの原因の一部を説明しているように思われる。見た目に鮮やかなプレーをすることと実際に多くアウトを奪って失点を防いでいることは別の問題である。
「自分は球場に行って守備隊形等にまで細かく注意を払っているし、観察が印象に影響されやすいことも織り込み済みで冷静に野球を見ている」という人もいるだろう。しかし、主観の癖のようなものを織り込んでいるといってもそれが実際に適切な補正として働いているかは結局のところ客観的なものさしに照らしてみなければわからないことであるし(自分が適切に機能しているかどうかを当の本人が確認することはあまり意味がない)、何百試合も見て細かなプレーのひとつひとつを全て記憶しておくことも不可能である。
データであれば誰が何本ヒットを打ったかということは網羅的に、正確に記録されている。やはり客観的に選手の活躍を測るときにはデータが武器になる。当たり前といえばあまりにも当たり前のことなのだが、セイバーメトリクスの意義はこういったところから存在する。また、従来数値化され利用されてきたもの以上に、思ったよりも多くの面で客観的な計測は有用であるように思われる。人は日常において、物の長さを測るのに定規を使ったり予定を忘れないようにメモを書いたりする。これが野球について熱くなるとつい「私はしっかり試合を見て把握している」と自信過剰になりがちだが、ものさしや記録は野球においても必要なのである。
データを用いずに選手を評価したり野球を考えたりする場合に直面する主な困難性は、以下のようにまとめられる。
・起こっている事象全てを網羅的に観察することはできない。
・起こっている事象の観察・認識には何らかの偏りが不可避的に介入する。
・観察した事象の全てを正確に記憶しておくことはできない。
ただでさえ恣意的に選択してプレーを見ているのに加え、同じプレーを見ても「良い動きだ」と思う人もいれば「普通だ」と思う人もいる。そして、派手なプレーは覚えていても地味に貢献するプレーはあまり記憶に残らないかもしれない。そのような中で客観的な選手評価をすることは難しい。
もちろん、データを使えば途端にこれらの呪縛から解き放たれて野球の真理に到達できるというわけではない。データはいくらかの部分について有用な役割を果たしてくれるだけであり、データにも抜けや偏りはあるし複雑な事象をそのまま表現することはできない。あくまでも主観を補完するものである。大切なのは、主観やデータそれぞれの得手不得手を認識しておいてそれらを有効に活用することである。
セイバーメトリクスによれば、野球ファンの考え方は、根拠のない思い込みや古い価値観に縛られていることになる。このような考え方は人間の活動を否定しデータを信奉するようで非人間的と思われるかもしれないが、個人的には人間の観察がそのまま野球の全てを的確に把握できるという全知全能的な人間観のほうに違和感を覚えるところがある。感覚的な観察の優れた面は踏まえた上で、野球との向き合い方に自省的で苦手な面については道具を使って補完するほうが人間的ではないだろうか。そこにおける道具立てがセイバーメトリクスである。
『マネー・ボール』には、従来型のスカウティングとデータを重視するスカウティングとの対立におけるアスレチックスGMビリー・ビーンのこんな言葉も記されている。
「だいじなのは、おたがいの見解を総合することで、相手の意見を否定することじゃない(同上、59頁)」
2.印象のバイアス
野球の観戦者やプレーヤーが現実とは違う姿で野球を認識してしまう錯覚にはさまざまな要因が考えられる。代表的なものとして挙げられるのは、印象の強さによって物事の評価が偏る危険である。
たとえばヒットエンドランなどの戦術の期待値は、成功した経験の印象が強く残って過大評価される可能性がある。失敗しても「今回は打者がタイミングを外されただけで、本来はうまくいくはずの作戦だ」と失敗を例外として無視してしまうこともあり得る(打者の失敗が発生することを防げないのならばそのこと自体も作戦の評価に織り込むべきである)。逆にバントが選べる場面で強行をする選択などは、併殺打など最悪のケースの印象が強く残り実際には安打によって大量得点が生まれている場合も多いのに過小評価されているかもしれない。自分が事象をどれだけ過大評価しているかを内省的に評価することなどは難しいし答えが出ないから、こういった場合は統計的な解析か確率モデルなどを用いたシミュレーションが有効と思われる。セイバーメトリクスでは多数行われている検証だが、得点期待値や勝利確率を用いてバントを試みる前の状況と後の状況を比較してみると、バントは一般に言われてきたほど有効な戦術ではないことがわかる(最近では統計学者の鳥越規央氏が『9回裏無死1塁でバントはするな』という本を出版している)。
打撃力を買って起用している野手のひどいエラーによる失点が原因で負けた場合などは「やはり守備が重要だ」ということが印象に残りがちだが、これもやはりシーズンを通じて守備でどれだけ損失を被っているかを定量的に評価し、打撃も合わせて選手を入れ替えた場合にどのように得失点差の収支が改善するのかという総合的な視点で評価することが望ましい。ひどいエラーといっても年に2、3回しか起こらないのであればその分の損失は打撃で埋め合わせられている可能性は十分ある。このことを検討するにはwOBAやUZRといった指標が役に立つ。
特定の印象的な物事に偏らずに網羅的に事象を分析するにはデータは有効である。
3.データの扱いにも注意が必要
データを使うと思い込みや勘違いを一定程度補正することが可能であると考えられるが、一口にデータといっても適切に扱わなければかえって混乱の原因となりかねない。
一般に見られるのは少数のデータから多くを語りすぎる誤りである。たとえば、売り出し中の若手がリーグを代表する投手と2回ほど対戦したときに8打数7安打といった鮮烈な活躍を見せるとたちまち「○○キラー」などと呼ばれたりする。しかしそれはあくまでもたった8打数のデータであって、その打者がその後も相手投手からよく打つかどうかの予測にはほとんど役に立たない。中継などでよく見られる「最近3試合の打率」といったデータも、その直後の試合でよく打つかどうかの予測にはほとんど役に立たないことがわかっている。「○点リードされていて得点圏に走者を置いたときの打率」など状況を絞り込んだデータもよく利用されるが、一般に対象を絞れば絞るほどサンプルが減少し統計データとしての意味が乏しくなることに注意しなければならない。
確率に関して誤った判断をしてしまうこともある。たとえば2割5分の打者が3打席目まで無安打のときに「確率的に言って次の打席では打つ」と考えてしまうのは「ギャンブラーの誤謬」などとして知られている。期待値として各打席に2割5分の打率があるのであって、打たなかったからといってその分を調整するように次の打席の打率が上がるわけではない。
データと因果関係という厄介な論点もあるのだが、これに関してはまた『マネー・ボール』に象徴的な例が載っている。早打ちせずボールをじっくり見るタイプの打者であるスコット・ハッテバーグがコーチにストライクを見逃すなと叱責される場面である。
「ストライクを見逃すと―苦手なコースだから見逃すのだが―たちまちベンチから怒声を浴びた。走者がいるときやノーストライク・ツーボールのときはもっと振っていけ、とコーチに叱責された。打撃コーチのジム・ライス(レッドソックス出身)が、執拗に忠告を繰り返す。ロッカールームでハッテバーグを呼び出し、チームメイトの前で『初球を振ったときは5割の成績を残しているのに、打率2割7分とはどういうことだ?』となじった。『ジム・ライスは現役時代、どんな球でも打って出るタイプだったから、皆に同じスタイルを求めたんだ』とハッテバーグは言う。『おれが初球を打つときは、よっぽどの絶好球が来たというだけなのに』(同上、230頁)」
初球を打ったときの打率が高いのは打てる球が来たときに振っていった結果であり、なんでもかんでも初球を振れば高い打率が出るはずというわけではない。これはおそらくはデータ(特にその因果関係)を誤って解釈している例である。もちろんそのデータは別として、初球を打ちにいったほうがいいという関連性はあるいは存在するのかもしれない。しかし「初球を振りにいったときの打率」というデータから短絡的に結論を出すことは不適切なのである。このあたりのデータの扱いについては、その意味を丁寧に解釈していくしかない。
最後に触れておきたいのは「平均への回帰」である。シーズン開始当初、各打者の打率は5割や2割とかなりブレるのが普通だが、打席数を重ねるにつれて2割後半あたりを平均として似たような範囲に落ち着いていく。これは少ない試行数だと偶然の影響も重なって偏差が実際の選手間の実力差よりも大きく出ているためである。少ない試行数のデータは長期的に見れば平均へ寄っていくもので、このような統計データの動きは「平均への回帰」と呼ばれる。ここで重要なのは、良い成績の打者はそれまで幸運に恵まれていた分バランスをとるような特殊な作用が働き成績が下がっていくというわけではないし、当初調子がよかったばかりに打撃が雑になるといった作用がなくてもこのような数字の動きが、いわば単純な統計的な現象として観測され得るということである。極端に良い/悪い成績を残した後は成績が平均に寄っていくのが自然であって(ただし必ずそうなるというわけではない)、ここに特殊な要因を見出してしまうのは勘違いの元である。たとえば子供が試験で良い点をとったときには褒め、悪い点をとったときには叱るという教育を行うとする。すると、平均への回帰の効果によって良い点をとった後には傾向として点数が下がることが多く、悪い点をとった後には上がることが多くなるのだが、これを指導が原因と考えてしまうと本来の因果関係とは関係なく統計上の動きのために「子供の成績を伸ばすには叱ったほうがいい」と結論してしまいかねない。
4.おわりに
色々と雑多に述べてきたが、最終的にはある程度「自分は野球をどう見たいか」という哲学的な問題になってくることは認めざるを得ない。主観や感覚についてははっきり定義・観測できないものであるため水掛け論のようになりやすい面もある。しかしいずれにせよ、少なくともこういったことについて時々反省してみることは意味があるのではないだろうか。
繰り返すが、データを利用すれば思い込みから完全に自由になると言いたいわけでは決してない。セイバーメトリシャンも多くの思い込みに縛られているだろうし、逆にデータの有効性を過大評価しがちであるかもしれない。それでもデータを無視するよりは主観とデータを統合することでいくらか客観的な視座に近づくことはできると信じているし、思い込みに対するある程度の補正にはなると考えている。また、定量的な分析をすることではじめて可視化できる側面もある(外野手の肩による走者に対する「抑止力」などは既に数値化されている)。データの有効性はゼロか百かではなく、有効なデータもあればそうでないデータもある。重要なのは解釈と扱い方である。
セイバーメトリクスはよく「机上の空論」や「数字遊び」といったニュアンスで(というかしばしばそのままの言葉で)批判を受ける。もっと実際に野球をプレーし試合をよく見ろという批判は多い。しかしそもそもセイバーメトリクスの取り組みは、主観的な観察・直感的な考察への懐疑に基づいている面がある。これは具体的にはどういうことを言うのか、今回はそれに関してセイバーメトリクス的な意見・見方を簡単に紹介してみたい。
セイバーメトリクスを世に広めた名著である『マネー・ボール』の内容は、野球ファン(あるいはプレーヤーや指導者までも)が、自身が持つ野球観の客観性を過大評価しがちであることを戒めている。私はセイバーメトリクスを紹介するために自分のサイトを立ち上げたとき、序文に真っ先に『マネー・ボール』から以下のビル・ジェイムズのコメントを引用した。
「考えてみてほしい。3割の打者と2割7分5厘の打者を、目で見るだけで区別することはぜったいにできない。なにしろ、2週間にヒット1本の差しかない。シーズンを通じてそのチームの全試合を観ているスポーツ記者なら、ひょっとすると何か違いを感じとれるかもしれないが、おそらく不可能だろう。10試合に1試合見る程度の平均的な野球ファンは、むろん、そんな微妙な差を見きわめられるはずがない。事実、もし年間15試合観戦するとすれば、目の前でたまたま2割7分5厘の打者が3割打者より多くヒットを打つ確率が40パーセントもある。要するに、すぐれた打者と平均的な打者の違いは、目には見えない。違いはデータのなかだけにある。(マイケル・ルイス著、中山宥訳、『マネー・ボール』、ランダムハウス講談社、2004年、98頁)」
考えてみれば当然のことである。野球ファンといっても、ほとんどの人は、行われているプロ野球全ての試合を見ているわけではない。半分見ることだって相当難しいだろう。そんな中でデータも見ずに「今年のMVPにふさわしいのは誰か」「一般に無死一塁でバントをするのは有効な戦術か」といった議論に対して特定の主張をすることは危険ではないだろうか。
それでも、ヒットを打ったか打っていないかといった明確な事象ならばまだいい。観測した対象についての評価がそもそも曖昧なこともある。ビル・ジェイムズのコメントは以下のように続く。
「そのうえ、誰もが打者を中心にして試合を眺めている。打者の動きを見つめ、スコアカードを開いて名前を確認する。三塁線に鮮やかな打球が飛び、それを三塁手が横っ飛びにつかんで一塁送球アウトにした場合、三塁手に拍手を送る。だが、打球が飛ぶ前、三塁手の動きに注目していた観客がいるだろうか? 三塁手がもし打球の方向をうまく予測して守備位置をずらしていたら、2歩だけ動いて、あたりまえにバックハンドでつかめただろう。そして誰も拍手しない(同上)」
この指摘は、守備指標の結果が主観的な評価と食い違うことの原因の一部を説明しているように思われる。見た目に鮮やかなプレーをすることと実際に多くアウトを奪って失点を防いでいることは別の問題である。
「自分は球場に行って守備隊形等にまで細かく注意を払っているし、観察が印象に影響されやすいことも織り込み済みで冷静に野球を見ている」という人もいるだろう。しかし、主観の癖のようなものを織り込んでいるといってもそれが実際に適切な補正として働いているかは結局のところ客観的なものさしに照らしてみなければわからないことであるし(自分が適切に機能しているかどうかを当の本人が確認することはあまり意味がない)、何百試合も見て細かなプレーのひとつひとつを全て記憶しておくことも不可能である。
データであれば誰が何本ヒットを打ったかということは網羅的に、正確に記録されている。やはり客観的に選手の活躍を測るときにはデータが武器になる。当たり前といえばあまりにも当たり前のことなのだが、セイバーメトリクスの意義はこういったところから存在する。また、従来数値化され利用されてきたもの以上に、思ったよりも多くの面で客観的な計測は有用であるように思われる。人は日常において、物の長さを測るのに定規を使ったり予定を忘れないようにメモを書いたりする。これが野球について熱くなるとつい「私はしっかり試合を見て把握している」と自信過剰になりがちだが、ものさしや記録は野球においても必要なのである。
データを用いずに選手を評価したり野球を考えたりする場合に直面する主な困難性は、以下のようにまとめられる。
・起こっている事象全てを網羅的に観察することはできない。
・起こっている事象の観察・認識には何らかの偏りが不可避的に介入する。
・観察した事象の全てを正確に記憶しておくことはできない。
ただでさえ恣意的に選択してプレーを見ているのに加え、同じプレーを見ても「良い動きだ」と思う人もいれば「普通だ」と思う人もいる。そして、派手なプレーは覚えていても地味に貢献するプレーはあまり記憶に残らないかもしれない。そのような中で客観的な選手評価をすることは難しい。
もちろん、データを使えば途端にこれらの呪縛から解き放たれて野球の真理に到達できるというわけではない。データはいくらかの部分について有用な役割を果たしてくれるだけであり、データにも抜けや偏りはあるし複雑な事象をそのまま表現することはできない。あくまでも主観を補完するものである。大切なのは、主観やデータそれぞれの得手不得手を認識しておいてそれらを有効に活用することである。
セイバーメトリクスによれば、野球ファンの考え方は、根拠のない思い込みや古い価値観に縛られていることになる。このような考え方は人間の活動を否定しデータを信奉するようで非人間的と思われるかもしれないが、個人的には人間の観察がそのまま野球の全てを的確に把握できるという全知全能的な人間観のほうに違和感を覚えるところがある。感覚的な観察の優れた面は踏まえた上で、野球との向き合い方に自省的で苦手な面については道具を使って補完するほうが人間的ではないだろうか。そこにおける道具立てがセイバーメトリクスである。
『マネー・ボール』には、従来型のスカウティングとデータを重視するスカウティングとの対立におけるアスレチックスGMビリー・ビーンのこんな言葉も記されている。
「だいじなのは、おたがいの見解を総合することで、相手の意見を否定することじゃない(同上、59頁)」
2.印象のバイアス
野球の観戦者やプレーヤーが現実とは違う姿で野球を認識してしまう錯覚にはさまざまな要因が考えられる。代表的なものとして挙げられるのは、印象の強さによって物事の評価が偏る危険である。
たとえばヒットエンドランなどの戦術の期待値は、成功した経験の印象が強く残って過大評価される可能性がある。失敗しても「今回は打者がタイミングを外されただけで、本来はうまくいくはずの作戦だ」と失敗を例外として無視してしまうこともあり得る(打者の失敗が発生することを防げないのならばそのこと自体も作戦の評価に織り込むべきである)。逆にバントが選べる場面で強行をする選択などは、併殺打など最悪のケースの印象が強く残り実際には安打によって大量得点が生まれている場合も多いのに過小評価されているかもしれない。自分が事象をどれだけ過大評価しているかを内省的に評価することなどは難しいし答えが出ないから、こういった場合は統計的な解析か確率モデルなどを用いたシミュレーションが有効と思われる。セイバーメトリクスでは多数行われている検証だが、得点期待値や勝利確率を用いてバントを試みる前の状況と後の状況を比較してみると、バントは一般に言われてきたほど有効な戦術ではないことがわかる(最近では統計学者の鳥越規央氏が『9回裏無死1塁でバントはするな』という本を出版している)。
打撃力を買って起用している野手のひどいエラーによる失点が原因で負けた場合などは「やはり守備が重要だ」ということが印象に残りがちだが、これもやはりシーズンを通じて守備でどれだけ損失を被っているかを定量的に評価し、打撃も合わせて選手を入れ替えた場合にどのように得失点差の収支が改善するのかという総合的な視点で評価することが望ましい。ひどいエラーといっても年に2、3回しか起こらないのであればその分の損失は打撃で埋め合わせられている可能性は十分ある。このことを検討するにはwOBAやUZRといった指標が役に立つ。
特定の印象的な物事に偏らずに網羅的に事象を分析するにはデータは有効である。
3.データの扱いにも注意が必要
データを使うと思い込みや勘違いを一定程度補正することが可能であると考えられるが、一口にデータといっても適切に扱わなければかえって混乱の原因となりかねない。
一般に見られるのは少数のデータから多くを語りすぎる誤りである。たとえば、売り出し中の若手がリーグを代表する投手と2回ほど対戦したときに8打数7安打といった鮮烈な活躍を見せるとたちまち「○○キラー」などと呼ばれたりする。しかしそれはあくまでもたった8打数のデータであって、その打者がその後も相手投手からよく打つかどうかの予測にはほとんど役に立たない。中継などでよく見られる「最近3試合の打率」といったデータも、その直後の試合でよく打つかどうかの予測にはほとんど役に立たないことがわかっている。「○点リードされていて得点圏に走者を置いたときの打率」など状況を絞り込んだデータもよく利用されるが、一般に対象を絞れば絞るほどサンプルが減少し統計データとしての意味が乏しくなることに注意しなければならない。
確率に関して誤った判断をしてしまうこともある。たとえば2割5分の打者が3打席目まで無安打のときに「確率的に言って次の打席では打つ」と考えてしまうのは「ギャンブラーの誤謬」などとして知られている。期待値として各打席に2割5分の打率があるのであって、打たなかったからといってその分を調整するように次の打席の打率が上がるわけではない。
データと因果関係という厄介な論点もあるのだが、これに関してはまた『マネー・ボール』に象徴的な例が載っている。早打ちせずボールをじっくり見るタイプの打者であるスコット・ハッテバーグがコーチにストライクを見逃すなと叱責される場面である。
「ストライクを見逃すと―苦手なコースだから見逃すのだが―たちまちベンチから怒声を浴びた。走者がいるときやノーストライク・ツーボールのときはもっと振っていけ、とコーチに叱責された。打撃コーチのジム・ライス(レッドソックス出身)が、執拗に忠告を繰り返す。ロッカールームでハッテバーグを呼び出し、チームメイトの前で『初球を振ったときは5割の成績を残しているのに、打率2割7分とはどういうことだ?』となじった。『ジム・ライスは現役時代、どんな球でも打って出るタイプだったから、皆に同じスタイルを求めたんだ』とハッテバーグは言う。『おれが初球を打つときは、よっぽどの絶好球が来たというだけなのに』(同上、230頁)」
初球を打ったときの打率が高いのは打てる球が来たときに振っていった結果であり、なんでもかんでも初球を振れば高い打率が出るはずというわけではない。これはおそらくはデータ(特にその因果関係)を誤って解釈している例である。もちろんそのデータは別として、初球を打ちにいったほうがいいという関連性はあるいは存在するのかもしれない。しかし「初球を振りにいったときの打率」というデータから短絡的に結論を出すことは不適切なのである。このあたりのデータの扱いについては、その意味を丁寧に解釈していくしかない。
最後に触れておきたいのは「平均への回帰」である。シーズン開始当初、各打者の打率は5割や2割とかなりブレるのが普通だが、打席数を重ねるにつれて2割後半あたりを平均として似たような範囲に落ち着いていく。これは少ない試行数だと偶然の影響も重なって偏差が実際の選手間の実力差よりも大きく出ているためである。少ない試行数のデータは長期的に見れば平均へ寄っていくもので、このような統計データの動きは「平均への回帰」と呼ばれる。ここで重要なのは、良い成績の打者はそれまで幸運に恵まれていた分バランスをとるような特殊な作用が働き成績が下がっていくというわけではないし、当初調子がよかったばかりに打撃が雑になるといった作用がなくてもこのような数字の動きが、いわば単純な統計的な現象として観測され得るということである。極端に良い/悪い成績を残した後は成績が平均に寄っていくのが自然であって(ただし必ずそうなるというわけではない)、ここに特殊な要因を見出してしまうのは勘違いの元である。たとえば子供が試験で良い点をとったときには褒め、悪い点をとったときには叱るという教育を行うとする。すると、平均への回帰の効果によって良い点をとった後には傾向として点数が下がることが多く、悪い点をとった後には上がることが多くなるのだが、これを指導が原因と考えてしまうと本来の因果関係とは関係なく統計上の動きのために「子供の成績を伸ばすには叱ったほうがいい」と結論してしまいかねない。
4.おわりに
色々と雑多に述べてきたが、最終的にはある程度「自分は野球をどう見たいか」という哲学的な問題になってくることは認めざるを得ない。主観や感覚についてははっきり定義・観測できないものであるため水掛け論のようになりやすい面もある。しかしいずれにせよ、少なくともこういったことについて時々反省してみることは意味があるのではないだろうか。
繰り返すが、データを利用すれば思い込みから完全に自由になると言いたいわけでは決してない。セイバーメトリシャンも多くの思い込みに縛られているだろうし、逆にデータの有効性を過大評価しがちであるかもしれない。それでもデータを無視するよりは主観とデータを統合することでいくらか客観的な視座に近づくことはできると信じているし、思い込みに対するある程度の補正にはなると考えている。また、定量的な分析をすることではじめて可視化できる側面もある(外野手の肩による走者に対する「抑止力」などは既に数値化されている)。データの有効性はゼロか百かではなく、有効なデータもあればそうでないデータもある。重要なのは解釈と扱い方である。
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野球を客観視した独自の論評、分析、および研究を特徴として、野球に関するさまざまな考察をしています。
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